アルカディア
それも好きな作家の一人だったから正面からじっくり見ていたら、八左ヱ門が肩越しに覗いてきた。
兵助、と呼び掛けてきて風が動いて、ふわっと彼の匂いがする。こっそり少しだけ息を吸った。
「八左ヱ門。……どう?」
「なにが」
「この絵」
「絵? これ?」
彼の言う絵の感想はなんだか面白い、というのは今日の兵助の新しい発見だった。今度はどうだろうと尋ねてみれば、八左ヱ門はちょっと困ったように瞬きを増やす。それからもごもご、えーっと、普通だな、と言った。
「普通?」
「あー……よくある感じっていうか、ナチュラルに見てられるっていうか。意味のわからん絵じゃなくて」
「ああ、さっきのみたいな――抽象画とか」
「そうそう。これは何が描いてあるのかもわかるし、何してるのかもわかるし、平和だし、きれいだし。なんかの話の一場面なのかなーとか」
「あー……」
兵助も頷いた。彼の言う意味も、その感覚もわかる。
今彼らの目の前にあるのは、のどかな風景の中、ギリシャ神話っぽい衣装の男女が石の碑を見て話をしている絵だった。柔らかい色調、正確なデッサン、安定した構図。親しみやすく、どこをとっても品良くまとまっている。が、言い換えれば一見して際立った特徴もない。つまり「普通」である。彼の言う通り。
「そうだな、わかるよ」
「そお? でも兵助、この絵好きなんだろ? こう――特別に」
「うん。でもその、そこが好きだから。大いなる普通っていうか普遍っていうか、美しい最大公約数っていうか、そういうとこが好き。安心する」
「ふーん? そういうもん? それはその……陳腐、とかとは違うの?」
眉を寄せて八左ヱ門が疑問を呈してくるから、兵助はぶんぶん首を振った。
「違うよ! 何のひっかかりもなく普通だって思えるってそれものすごいことだし、よく見てたらそのための計算とか技術とかがしっかりしてるのもよくわかるし。この空気感もなんか、行ってみたいってリアルに思う……全然独自の別世界を作ってる絵やなんかに対して思うようなのとは違う、もっと、本当に行けそうな感覚で。ひょいっとさ、じゃこれから、みたいな感じで行ってみたい」
「へーえ、じゃあ俺も行きたいな」
「え、いやいいよ」
「へ」
反射的に口から零れた否定を、兵助はすぐさま後悔した。八左ヱ門が目を見開いて固まってしまったからだ。
「あ……ごめん……」
ノリで言ったのだろうただの冗談にすっぱり拒否するような言葉を返してしまったのは、そんなの悪い、という感情が表に出たせいだった。今のはたまたま言葉だけの、それも架空の話だが、それよりもっと根の深いところに、兵助には八左ヱ門に対するそういう気持ちがずっとある。彼に対して、済まない、申し訳ない、と遠慮する気持ちが。
そもそもこうして付き合いだしたのも兵助の殆ど懇願に近い告白があったからだ。今夜ここに来たのだって、八左ヱ門が兵助の希望や嗜好をわざわざ汲んでくれた形だった。一事が万事、自分達はそうなのだ。
さっきは一目惚れがどうとか言ってくれたが、彼のそういった熱量はその取り巻く様々な事物に向けられていると兵助は知っている。例えるなら、こちらが両手一杯に持て余している想いに、八左ヱ門の方は片手の指先だけで同等に返すことができてしまう、ということ。
それに今更不満を言うつもりはない。が、そういうものだと自覚はしておくべきだと兵助は思っているし、実際常にちゃんと考えているつもりだった。なのに弁えずさっきべらべら語ってしまったことが、彼がじゃあ俺もなどと乗ってくれた瞬間急に恥ずかしくなったのだ。
弁解するように、兵助は慌てて声を上げる。
「あの、違うんだ、嫌とかじゃないんだ。ただほら……八左ヱ門はそんなに興味ない話だろ? なんか悪いっていうのが先に立って、つい。ってどっちにしろこんな真剣に話すようなことじゃないけどさ、なんとなく――、え」
なるべく軽い調子になるようにと続けていると、手首に鋭い痛みが走った。ぎょっとして見れば、兵助のそれを八左ヱ門の手が掴んでいる。え、と戸惑う間に遠慮のない力でぐいと引っ張られた。
「な、……え? はち? 八左ヱ門?」
「……」
彼は何も喋らない。顔も窺えない。ただただぐいぐい兵助の腕を強く引いて歩いて、関係者用と思しき暗い通路へと引き込んだ。陰になった硬い壁に、そのまま乱暴に押し付けてくる。
「いっ――、」
兵助が肩甲骨の痛みに顔をしかめ目を閉じた、瞬間唇が塞がれた。
「ん、うぅ、……っ」
遠慮も気遣いもない、身勝手なキス。無理やり舌を突っ込まれ唇で吸われる、歯が当たる。噛みつくようなとかいう単語が頭をよぎる頃、ぎりっと皮膚に食い込む感触があった――本当に噛まれた。
「、ッ!」
途端生ぬるく滲む、血だ。触れてみた指先が濡れて赤い。ぽたっと一滴床に垂れ、八左ヱ門がはっとしたように身を起こした。
「、あ……」
「ん」
大丈夫だ、と不自由な唇で囁いてから袖口で、次いで尻のポケットにあったくしゃくしゃのティッシュで押さえる。
「ご、ごめ、兵助……ほんとごめん」
「はひ、ざえもん?」
「ごめん――頭に血が、上って」
ごめん悪かったと繰り返しながら、彼は後ずさった。淡く届く灯りが彼の目を照らし、途方に暮れたその薄い色を映し出す。また一歩後ろへ退こうとするから腕を掴んだらもっと弱り果てた顔で見返してきて、それから凭れ掛かるように兵助のすぐ横の壁へ額をごんと押し当てた。ごめん、ごめん、と洩れ続ける呟きに、だいじょうぶだって、と返す。
事実大した傷ではなかった。恐らくだが既に血も止まりつつある。ただ少々じんじんした。舌で舐めてみたらどこか懐かしい鉄の味が口に広がった――ああ八左ヱ門のつけた傷だ、と思った。
正直にいえば、たまに酷薄な目をする、とは思っていた。いつも一瞬で消えるからきっと気のせいだ、とも。でも、違ったのだろうか。ひょっとして彼は、兵助が思うより遥かに暗いものをその内に抱えていたのだろうか?
出会った頃からいつも彼といて感じてきた、「明るい」という感覚。こうしている今だってそれはありありと感じられる、が、形容詞とは常に相対的なものなのだ。とすれば。
八左ヱ門の明るさを明るさたらしめている暗さは、己の中にあるのだとばかり兵助は思っていた。けれどもし、それが兵助のものだけではないのだとしたら――八左ヱ門自身の抱えている翳りが、裏返るようにしてその明るさを余計に明るくしているのだとしたら。
再びじわりと何か滲んだ気がして、兵助はまた唇を舐めた。生乾きのぬめっとした感触、生々しいしょっぱさが肉感を備えて鼻に抜ける。――これは彼のくれた傷、彼の暗さの味だ。兵助はずっと知らずにいた。
腹の底が震えて、ぞくぞくした。手を伸ばし、八左ヱ門の頭を抱く。触れた瞬間びくっと彼の肩が揺れたのにまた胸を衝かれて、唇を押さえていたもう片方の手もその背に回した。手のひらの下の広い固い背、その内側の鼓動。温もりが流れてくる。
口を開いて、躊躇って、閉じて。兵助は唾を飲み込んだ。そうして僅かに喉を湿しつつ、どこから話そうか、と考える。
例えば――あの、絵はどうだろう。八左ヱ門がさっき明るい展示室で平和だと評した、あれ。
あそこに描かれた石碑は実は墓石で、苔むした陰にはひっそり頭蓋骨だって転がっていて、呑気そうな人々の指す碑文は逃れ得ない死についての警告なのだと、突然そんな話をしたらまた彼を困らせるだろうか。兵助が言いたいのは、託されたそんな薄暗い意味を知ってからの方が、単なるきれいな絵だと思っていた昔よりもいっそう深い気持ちであの絵が好きになったということなのだけど。
糸口を掴みかねて目を上げれば、窓の月はもう随分高いところにいた。いつしか動いていた雲に半ば隠されて、でも変わらず深閑と青白い光を投げかける。
両手で温かく抱き締めた八左ヱ門の、光に晒されているものと陰に隠されているものと。どちらもあるから両方愛しいし、両方欲しい。その存在の奥行きを知ることそのものに喜びがある。
全部伝えたら、彼はどうするだろうか。
唇の傷から広がる微かな恍惚に酔いながら、兵助は鈍く甘く痛む口をゆっくり開いた。