アウトロダクション

 重い回転ドアを押し開ければ、外は、ここに訪れた時と変わらぬ暗がりの儘だった。
 いや、明け方が近くなった分、闇は深さを増したかもしれない。相も変わらず煌々とした月、その位置だけがひどく動いていて、ぐっと西に傾いたそれはきっともうすぐ、美術館を囲む木立の陰に沈んでしまうのだろう。
 隣には何処かふわふわとした足取りで黙って石畳を踏む兵助がいる。街灯の明かりを受けた影法師は上機嫌を踊るようで八左ヱ門は安堵の息を吐いた。
 白状すれば、八左ヱ門自身は絵だの彫刻だのが好きなわけでは無い。嫌いなわけでも無いが要するに関心が薄い。それなのに展覧会などに来てしまった理由はただ兵助が喜べばいいとそれだけだった。さらに言うなら、夜デートのロマンティックな雰囲気だとか美術展にまつわる恋愛絡みのジンクスだとか昔々の美術の時間の思い出だとか、そんな色々な思惑がまぜこぜになって来館を決めたのだ。
 積み上げた思惑はかなりの高打率ヒットを見せて、来てよかったと素直に思えるくらいの得点は稼ぎ出していた。
 大成功だったんじゃねえの? 俺、いいチョイスしたよな。なんて八左ヱ門が一人で悦に入っていると不意に傍らの兵助の足元が揺れた。何かに躓いたようにふらとバランスを崩した身体に慌てて手を伸ばす。片腕を引いて支えると驚いた顔がこちらを見上げた。
「あ、ごめん」
「いや。大丈夫か?」
「うん」
 体勢を整えた兵助がまたふわふわした歩みで石畳を踏み始める。普段だったらこういう時、恥ずかしげにすぐ抜け出していってしまう腕が、しかし今日は逃げなかった。捉えた掌の中で、むしろ少し寄り添うような重みに八左ヱ門は仰天する。外出時の余計な接触を好まない兵助にしては一大珍事だと言ってもいいだろう。
 掴んだ手首の細さと骨ばった感触が離れぬことに八左ヱ門が内心で狼狽えていると、ぽつりと声がプロムナードに落ちた。
「……俺さ。美術館って好きなんだよな」
 見やれば灯に青く沈む兵助の横顔である。
「空間からしてなんか不思議な感じするだろ。大袈裟かもしれないけど、異世界に迷い込んだみたいな。現実と違うみたいなって言うか」
「あ、うん」
 八左ヱ門も頷いた。思い返す。しんと静まった展覧室と、それぞれを繋いでいた月明かりの射し込む通路。四方から絵画たちの見下ろすギャラリーに窓は無く囲んだ壁が外界との交わりを断ち切ってしまっている。徹底的に調整された空調から流れる空気に満たされてあそこはまるで異相の間隙だった。それこそ、そんな雰囲気に流されることの少ない八左ヱ門にもそうと感じられるくらいの。
 だけど本来ならそれは回転ドアを回した瞬間に霧散する筈のものだった。なのに今夜は、まだ二人の周囲を取り巻く目に見えぬものがある気がする。この時間帯のせいだろうか。
「絵ってさ、一枚一枚に詰まってるものがあるだろ。物語なのかな。背景とか描いた人がどういう気持で描いたのかーとか。もっと言ったら、ここの色はなんで置いたのかとかここの構図はなんでこうしたのかとか。置かれた小物のひとつひとつに裏の意味があったりしてさ。情報量がものすごくて圧倒される。それで美術館って、そういう物語がひしめきあってて、壁中からうわーって降って来て、もう、一枚一枚覗いてるだけでいろんな所を旅行気分になるみたいな」
「えーと、プチトリップってやつ?」
「そういうのかもな」
 はは、と笑う兵助こそが何処か別の世界に溶けそうだった。思わず握った指の力を強くしたがうっとりと語る兵助は気付かないようだ。
「今日もすごく圧倒された。それで、なんだろうな、そんなにエネルギーがあるのに絵は静かなんだよ。太陽の核融合の熱じゃなくて、月の光なんだよな。似合うの。だから今日は色んなのがぴったり嵌りすぎてて……楽しかったけど、ちょっと当てられた。かもしれない」
 ごめん変なこと言ってるな俺、と笑んだまま、ふら、と彷徨う兵助の足取りは酔いの態に似ていた。預けられたままの重さも、普段より近い距離の靴音も。
 そうか、月のせいだ。
 だから八左ヱ門は握った指を滑らせると己より体温の低いそれに巻き付かせた。掌を合わせ、五指の隙間に差し込んだこちらの五指をきゅっと絡ませる。今夜なら許される気がした。案の定兵助は、訝し気な目線を上げたものの繋がれた手を振りほどくことはしなかった。
 ほたほたほた。二人分の足音が人気の無い夜明け間近の街路に浮かぶ。美術館前のプロムナードを抜けてしまえば途端に灯りを減らすアスファルトは暗い。木立のスリットから覗く満月はいやに冴え冴えと見えてそのくせ遠かった。そっと目を逸らすように、訳知り顔の月光。
 絵から絵へ、扉から扉へ、夢から夢へ。
「――わかる気がする」
「ん?」
「だから、兵助が言ってるやつ。展覧会っていろんなとこ旅してるみたいだっての。俺も、なんかちょっとそんな感じしたし」
「そっか」
 薄く微笑んだ兵助の、あの空間で感じたことの全部が八左ヱ門に伝わったわけではないのだろう。それは八左ヱ門にも理解できた。多分、自分には決してわからないもっと色んなことを傍らの彼は感じて考えたのだ。それは八左ヱ門があそこで触れた感覚が十全で兵助に伝わりはしないのと同じことだった。例えば、足下の床が崩れるようなふとした不安。しんと絵画の並ぶ部屋の中兵助を見失ってしまったら二度と見つけられないのではないかというような、根拠のない、しかし確かな懼れの感情。きっとそんなものは兵助にはわかってもらえない。
(わからなくていいんだけど)
 たぶん、それは一緒じゃなくてもいいことだ。全て同じものを抱えなくたっていい。だって八左ヱ門は兵助になりたいわけではない。八左ヱ門のままで兵助に寄り添っていたいだけなのだ。
「俺は……」
 うん? と首を傾げて見上げてくるから八左ヱ門は笑う。
「兵助と二人だったらどんな世界でもいいな」
「あ?」
 やたら胡乱げな声で変てこな表情をした兵助に八左ヱ門はますます笑った。うん、それでいい。兵助には決して伝わらない、だからこそ八左ヱ門が大事に抱えるもの。それを握った掌で確かめる。
「また、来ようか」
「そうだな」
 今度は図録も欲しいな、あとポストカードも、なんていう会話は途端に日常めいていて、東の空はゆっくりと青く澄んで来たようだった。


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