彼のブルー
さして大きくもない、ぬんと横に長い絵だった。
兵助が随分熱心に見ていたから、八左ヱ門もつられて近付いてみたのだ。
が。
(……青っ)
遠くから近くから、あるいは瞼をいっぱいに開いて見ても薄目で見ても、八左ヱ門にはそれ以外の感想が浮かばなかった。
だって青いのだ。細長い方形のキャンバスがひたすら一面、青い。全面に波立ったような凹凸が感じられる以外は濃淡も粗密も余白もなく、とにかくただただ青い。
「兵助?」
「んー」
「好きなのか? これ」
「え、あ? ああ。うん、まあ」
「あー。えっと……青いな」
「うん、青いな」
八左ヱ門が声をかければ、僅かに体を捻った兵助は束の間こちらへ意識を向けたものの、またすぐ身も心も絵の方へと戻してしまった。思った以上に返事がおざなりだったことに、やや傷ついた気分になる。
(――これのどこが、そんな……)
拗ねた心持ちで斜に見る。やっぱり青いな、としか思えない。
確かにきれいな青色ではある。紫にも緑にも寄らない、痛いほど冴えきったブルー。華やかさとか高貴さとか、そんなものも感じさせる。以前どこかの土産で貰ったなんとか切り子のグラスセットにこんな色をしたものがあった。力強く鋭い鉱石のような、ないはずの透過光さえ見えるような。
兵助は相変わらず、何が楽しいのか食い入るようにその真っ青なキャンバスを見つめている。横から窺い見たその瞳までもがうっすら青くなった気がして、ふと焦燥に襲われた。
「――え?」
「あ」
気付けば八左ヱ門は兵助の手首をきつく掴まえていた。手のひらの中の筋っぽい前腕、目の前には訝しげに眉を寄せた彼の顔。
「なに……?」
「いや。えーと、好きです」
「はっ、はいぃ? ――、っ」
兵助の声が裏返り、それから呑み込まれる。叫びかけた途中でここが美術館だと思い出した風だ。その分、とでもいうように眉が更に盛大に寄せられ、ただでさえ大きな目がいっそう大きく見開かれた。無言のままに、何言ってんだお前阿呆か、と雄弁に噛み付いてくる。ほの赤く染まった頬の色が救いだけれども――それでも、お前が絵に拐われてしまいそうで、なんて真面目に言ったらさぞかし笑われることだろう。
けれど八左ヱ門はさっき一瞬本当に、そんな気がしたのだ。自分には意味のわからないその青の塊がどうもあまりにも強すぎて、そいつに兵助が心を傾けているらしいことが何か、不吉な気すらして。獲られたくない、なんて思って。
「あのー、はは、なんかさ、言いたくなった」
八左ヱ門がふざけた調子を繕って言えば、兵助がぱっとまた顔を赤くする。
「――っ、あーもう、お前は、そういうのやめろよな!」
抑えた小声で返しながら、持っていた館内パンフレットをばしばし広げ始めた。俯いて指で差しては、順路、次、あっち、ほら、などと早口に喋っている。
彼のその怒ったような態度が照れの裏返しだということは八左ヱ門にもわかる。からかわれたとでも思ったのだろう。それでこんな風になるのは、八左ヱ門のことを好いているからこそだ。それもわかる。でも。
「もうさー八左ヱ門はさ、悩みとかないって感じだよな」
「……そうか?」
「そうだよっ」
まだ下を向いている、兵助の顔はまだ赤い。こっちを見ずに、一人で感情を揺らしているせいだ。
じわりと足元に忍び寄る、覚束ないような感覚。手を伸ばせば届く近くにいるはずの彼が、どうしようもなく遠く思えた。
兵助といると八左ヱ門は時々こうなる。彼の気持ちが自分にあることはその言動の端々からちゃんと伝わってくるのに、未だに片想いをしているみたいな気分になる。そうして、切なさを覚えると同時に苛立たしくもなるのだ――俺が飼い育てているこの淋しさに、どうして彼は気付かないのだろう?
それは大層理不尽なことのような気がした。その度に乱暴な気分に八左ヱ門はなった。もっといってしまえば、無性に彼に酷いことをしたくなった。傷つけるとか閉じ込めるとか、無茶苦茶に犯すとか、そういうことをだ。
そんな衝動、いつもすぐに治まるけれど。今だってそうなるに決まっているけれど。
彼の後について廊下に出ると、静かな月光が床に落ちて窓枠と兵助の形を切り取っていた。彼を象る影のその形を、こっそり指でなぞってみる。
そういえばこんな絵もどこかで見た気がする。確か、美術の授業のスライドか何かだ。絵画の起源とかいうキャプションがついて、壁に映った恋人の影を少女が消し炭だかでなぞる場面が描かれていた。
八左ヱ門の美術の時間といえば、悪友が教科書にくだらない落書きをしてくるのにぎゃあぎゃあ騒いでいた記憶ばかりなのだが――例えばちょっと中性的な半裸姿の少女のデコに「兵助」と書いて「ごはんにする? お風呂にする? それともた・わ・し?」などと言わせるとか――、あのスライドはなぜかよく覚えている。描かれた想いがありありと想像できてしまったからかもしれない。
愛しい者の輪郭だけでもと手に入れたがることは気休めにすぎない、けれど万人の共感を呼ぶであろう切羽詰まった願いだ。起源と称されるその行為から始まり、それぞれに何かしらの願いを込めて、たくさんの人間がたくさんの絵を描いた。さっきのあの、よくわからない絵もまた。
兵助が青を見る。平板なようでいて秘めた奥のある青、静謐なようでいて攻撃的な青を。八左ヱ門の理解の及ばない一方で、恐らくはやっぱり切実な何かが込められたのだろう色を。
そしてそうしている兵助を、八左ヱ門は見るのだ。優しさに見せかけた横暴さをひっそり抱えながら、快活だなんて人から評される笑顔で見る。
(……別に、作ってるとか嘘とか、そんなんじゃないけど。――)
小さな溜め息を噛み殺す。
月明かりの廊下を数歩先に立って進む、兵助の背はやけに細かった。抱き締めたくて、切り刻みたい。
この情動はなんだかあの青さに似ていると不意に思った。ない交ぜに孕んだ矛盾と強い純度と、峭立して動かない頑なさ。自分に近しい分だけ余計に嫌だったのかな、と変な納得をする。
ひとつ片付いた気がして振り返ってみたが、もう青い色は見えなかった。
良くない牙を今日も注意深くしまい込む。
次の部屋にでも行ってしまえば、きっといつも通りに戻るのだ。
兵助、待てよ、と明るい声で呼びかけ、八左ヱ門は恋人の後を追った。