主義者二人

「あれこの部屋、明るい」
 一歩足を踏み入れた瞬間、八左ヱ門が言った。
「……明るい?」
 おうむ返しに口にしながら、兵助も展示室に入ってみる。一旦立ち止まりぐるりと周囲を見渡せば、四方の壁にそれぞれ間隔を置いて並べられた絵はどれも、彩度の高い色を粗さの残る筆触で重ねて描かれているようだった。
 二度、三度と瞬きをしていると、確かにここはほんのり明るいように思えてくる。今までの部屋にはなかった、不思議に澄んだ軽やかさ。風通しのようなもの。一枚一枚の絵を浮かび上がらせる光はこれまでと同じく細心に調整されているのだろう控え目なハロゲンランプだけで、その照度に変わりがあるはずもないのに。
 入口横に小さなプレートがあったから、読んでみた。予感した通り、この部屋の展示について説明しているらしい。
「――『印象派』、だって。ここ」
「あー、なんか聞いたことある……習った……?」
「だな、美術の教科書に載ってた」
「そうそう、落書きしたわー」
「ふーん?」
「うん、した……てか、されたり……した。うん――」
 何か思い出したのか、八左ヱ門は笑いを無理に噛み殺すような妙な表情をその頬に浮かべた。そうしながら、一枚ずつ絵の前に立っていく。
 なんとなく見送って、兵助はプレートの続きに目を戻した。
「……あ、でも印象派って最初は、なんか……蔑称だったみたいだよ」
「蔑称? なんで?」
「ええと。新しすぎた、ってことなのかな? 当時は革新的なスタイルだったらしい。そう呼ばれるきっかけになった展覧会もスキャンダル扱いされてたって。……この名は展覧会を見た批評家が軽蔑的な意味で『印象だけ』『印象派』と称したことに由来する、だって」
「へえー。でもなんか……明るいよ」
 振り返った八左ヱ門は部屋全体を見渡し、納得いかなげに呟いた。それからうん、明るい、ともう一度。
 兵助もまた歩いて、絵に近付いてみる。一枚の前で立ち止まれば、細かく分断された色彩の薄片が徐々に鮮明さを増してくるようだった。同時に総体としての命をもって、ふわふわ網膜に舞い始める。
 じっと見ていても、題材の細部はよくわからない。どこかの明媚な風景であるらしいそれの、花畑の花が何なのか、どこまでが道なのか小屋なのか木なのか、ぽつぽつと配された人の表情はどうなっているのか。ただその分却って、無邪気に視覚ばかりに訴えてくる単純な快さがある。
 そしてそれを端的に「明るい」と表現する八左ヱ門にもまた邪気がない、と兵助は思った。彼という人間のもつシンプルな快さも多分、こういうところにあるのだ、と。場と呼応するようにして表に出る、そして兵助の心を揺さぶりにくる。
「――そうだなあ」
 兵助は答えてみて、思っていたよりもずっと優しい声音になってしまったことを少しばかり恥じた。
「俺さ、これだわ、印象派だわ」
「え? ……ああ、うん、お前は明るいよな」
 八左ヱ門の口から出た言葉の脈絡は一瞬わからなかったが、すぐに得心する。要するにきっと、兵助自身が今考えていたことと同じだ。
 けれど八左ヱ門は、あ、いや、違う、と首を横に振った。
「えーと、そうじゃなくて。さっきの、印象だけ、って」
「ん?」
「だからー、第一印象から決めてました! ってやつ。兵助が」
「へ」
「あでも蔑称? まずい? ケイベツされちゃう?」
「……」
 断片的な言葉がゆっくり頭の中で凝って固まって、回路にぱちんと嵌った。「嬉しい」とか「幸せ」とか、そっちの方へまっすぐに繋がる回路だ。駄目押しのように、八左ヱ門が「一目惚れっていうんだなあ、ああいうのな」などと嘯いてはうんうん頷く。
(うわ……)
 音もなく気配もなく、でも確実に、光の波みたいなものが寄せてくる。彼といるとしばしば訪れる、けれど未だに慣れないこの感じ。はしゃいでしまっていいんだろうか、まずいんじゃないか、と思いながら、抗いがたい浮遊感に脳の真ん中まで侵されて、結局はいつだって溺れてしまう。思えばことの始まりからもう、ずっとだ。
 だから、つまり。
「……いいんじゃ、ないか。次行こう」
「……兵助耳赤い」
「行こう」
「歩き方変だぞ」
「…………」
「なあなあ、何がいいって?」
 八左ヱ門の顔が見られない。赤くなっていることぐらい自分でもわかっている。
 兵助の頭を、彼に初めて会ったときのことがよぎった。八左ヱ門が「決めてた」と言った、二人のファーストコンタクト。その瞬間の兵助の方はといえば、彼がこの部屋に来てすぐ口にしたあれとそっくり同じことを思っていたのだった――ああ、ここはなんだか明るい、と。
 その感覚は淡くなったり濃くなったりを繰り返しながら、今も脈々と続いている。
 例えばそれが世間一般には受け入れられないようなものでも、そういう最初の瞬間に心に刻まれた形のない何かに身を捧げるのが印象派だというなら。
「だから……俺もだから」
「うん?」
「俺だって決めてた」
「………………え? お?」
 行こう、と今度こそ言い、兵助は歩き出した。ぎこちない歩き方になっているだろう、顔だって赤いだろう、でも、いい。それより人目のないのをいいことに、八左ヱ門の手を取り上げちょっと握る。
 ――誰に批判されようが蔑まれようが、俺も彼も「印象派」とやらで。だから、いいのだ。
 お前と一緒なら俺はどこでも明るいよ、だなんて痒くなるような台詞が一瞬浮かんだが、少し考えてから呑み込んだ。


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