水底の駅

 あれ、と小さな呟きが聞こえた気がして八左ヱ門は足を止めて振り返った。
 クリーム色の壁には等間隔で何枚もの絵画がお行儀よく並んでいる。
 展覧会などに来てしまったものの、そもそも八左ヱ門はそこまで美術に造詣が深いと言うわけではない。絵画鑑賞の趣味も無いし、良い絵だ悪い絵だと言われても区別もつかない。これは何となく好き、こっちは何となく嫌い、その程度である。
  だから興味を引かれない作品の前では自然と足が速くなる。一枚一枚を丹念に眺める兵助とは進むスピードにも差がついた。今も、八左ヱ門的には何だか大して 面白くもない画風の並ぶ部屋の壁の前をおざなりに素通りしていたら、かなり後ろで足を止めていた兵助の声が耳に届いた。
 あれ、と不思議そうに、ぱちんと泡を吐き出すみたいな声音。
「兵助、どうした?」
 早足で戻る。隣に立っても兵助は相変わらず不思議そうに小首を傾げて、大きな一枚の前でその目をぱちぱちさせていた。
「この絵、変だ」
「変?」
 言われて八左ヱ門も兵助の前に掛けられた額縁の中身に目をやった。先刻は、なんだかつまんない絵だ、と一瞥して通り過ぎた一枚である。
 それは伝統の技法を使ったいわゆる古典的絵画と言うよりも、現代のイラストレーションに近いような雰囲気の一枚だった。まだ最近のものなのかもしれない。この部屋の中にはこんな感じの、色は綺麗だけど平坦なイメージの塗りをした絵が多くて、それが何となく八左ヱ門には気に入らなかったのだ。
 明るい光に満ちた画面の中には木々に囲まれた古い駅舎が大きく描かれていた。手前には線路も伸びている。リアルタッチとでも呼ぶのか、写真みたいでかなり精緻な描写だ。線路とホームには草が生えていたし駅舎の壁は崩れて柱にはツタが絡まっていたから、きっと廃駅なのだろう。やたら空気に青やら緑やらが強い気もしたが、そういう見せ方なのだと思えば何の変哲もない風景だった。
「なにが変?」
「ほらここ」
 兵助が指差した一画を見やって八左ヱ門も、あれ、と瞼を瞬いた。
 それは駅の上空だった。駅舎のくすんだ弁柄色の屋根と木々の隙間から覗く青い空。そこに浮かぶ影がある。鳥かと思っていたが、違う。魚だ。数匹の魚が鱗と鰭をきらめかせて空の上を泳いでいる。
 一瞬戸惑ってから八左ヱ門は納得した。成る程、これは水の中の風景だ。この駅は水に沈んだのだ。画面全体が妙に青や緑に光っている印象だったが、これは空気じゃない。水だ。きらきらした青空は水面で、銀の筋みたいな雲は波紋の影なのだ。
 そう気が付いてしまえば。
「あぁ、水の中なんだな、これ。駅ごとダムに沈んだとかあるじゃん? そういう絵なんじゃねえの? うん、珍しいし綺麗だけど変ってことも……」
「違う」
 納得を返しかけた八左ヱ門に、しかし、兵助は首を振った。その指がまた違う一画を指す。
「だったらさ、これ、変じゃないか」
「……あ」
 今度こそ八左ヱ門は虚を突かれて、兵助の細い指先が示した先を食い入るように見つめてしまった。
 駅舎の中。光に満ち溢れた外とは違い古びた屋根が薄い暗がりを作るホームの片隅に。男は座っていた。老人だった。コートを着て足元に杖を立て掛けた老人は、ゆったりしたポーズでベンチに腰掛けて、まるで散歩の途中の一コマでもあるようだった。
「これ……人間、だよな?」
 よくよく見れば精細な筆致はほんの小さな彼の表情までを描き出している。流石に細かい所まで手に取るようにわかるというわけでは無かったが、一見してそれは柔らかな、満ち足りた顔だった。
「うん、人間だと思う」
「でもこれ水の中だよなあ?」
「うん」
「えー……」
 八左ヱ門は首を捻った。
「なんだ、えーと、ファンタジーとかそういうやつ?」
「ファンタジーって」
 兵助が呆れたように返してくる。
「シュールレアリスムってんだと思うぞ、たぶん。現実には無い様な不思議な風景とかを描き出す……」
「ほーっ。そんな風に言うのか」
 八左ヱ門は改めてその絵をじっくり眺めた。
 細かい所まで注視すれば、駅舎の周りをきらめく泡ぶくが昇って行き、線路の草の陰には小さな小さな魚と海老が戯れているのが見て取れた。まぎれもなく此処は水中なのだ。けれども老人は足を伸ばして陽だまりにくつろぐ風情だ。
 実はこの駅は廃れてなんかなくて、老人は汽車を待っているのかもしれない。そのうち錆びた線路の上を滑るように汽車がやってくる。煙の代わりにガラスのような水流を煙突から吐き出して。そんな光景を八左ヱ門が夢想した時だった。
「……ヨーロッパのどこだったかな、水に沈む公園があるんだ」
 兵助の声が鼓膜を打った。
 そちらを見やると兵助は変わらぬ真剣な目付きで水の中の駅舎を見つめている。その唇だけが腹話術の人形のように開いたり閉じたりを繰り返した。
「秋から冬にかけては普通の、浅い湖って言うか池みたいなのの周りに公園が広がってるだけの場所でさ、でも春になって雪解け水が流れ込むとその辺り一帯が水の中に沈むんだ。公園のベンチも遊歩道も芝生も、なにもかも」
「へえ」
 そんな場所が存在するのかと八左ヱ門は驚いた。その耳朶を弦の震えのような響きを持った兵助の声が揺らす。
「透 明度の高い水でさ、そこら中が一気に沈むんだよ。水深10Mだったかな。だから色んな物が水の中で、まるで空気の中にあった時みたいに存在する。花の咲い た木とか、緑の葉っぱとか、橋や並木まであるんだ。それで芝生の上や花の周りを魚が泳いでく。すごいだろ? 俺、一度でいいからそこに行きたいって思って たんだ」
「――過去形?」
 耳ざとく聞きつけて首を傾げた八左ヱ門に兵助は振り返った。この部屋のこの絵の前に立ってから初めて、黒い大きな目が八左ヱ門を映す。何処か投げやりな風情で兵助は笑った。
「人 間がね、そこに潜る動画を見たんだよ。ダイビングスーツを着込んで、フルフェイスのマスクを着けて、でっかいエアタンクを背負って。……不格好だった。綺 麗な水の綺麗な景色の中でそいつらだけが不格好なんだ。みっともないって思ったよ。俺がやりたかったのは違う。俺が、そこでやりたかったのは――」
 口を噤んだ兵助は再び絵画を見つめる。その奥に座る老人の姿を。口の中に消えた言葉の続きを八左ヱ門は悟った。
 兵助は、この老人のようにありたかったのだ。
 何気ない格好で何気ない仕草で。何処にでもいるただの散歩者のように澄んだ水中の小道を歩きたかったのだろう。けれどもそれは無理な話だ。人間が人間である限り、雪解けの深く冷たい水の底を普段通りに散歩するのなんか不可能だったから。
「そうかあ」
 併せるように頷きながら、それでも八左ヱ門は思った。
  本当は、過去形なんかじゃないんではなかろうか。兵助は今でも考えているのかもしれない。いやきっと考えているだろう。武骨な保護スーツに身を包むことな く、レギュレータから吐き出される無機質な酸素を吸い込むことなんかなく、ありのままの格好で冷たい湖の底の森をゆっくりと歩くことを。時間を忘れて、の んびりと、水面から射し込む陽光を『ああ暖かいな』なんて嘯いて。ゆらぐ木のベンチに腰掛けて、梢を泳ぐ魚の群れを見上げて深呼吸する。たとえその先に待っ ているのが溺死という地上生物の成れの果てであったとしても。
 昔から兵助にはそんなところがあった。
 己の思いこんだことを至上としてその為にはいとも軽々と命さえ投げ捨ててしまうような、そんな透明な身軽さと危うさ。それから何処か厭世的で他人や世界に触れるのを避けるようなところ。
 だからこそ、そんな兵助が、何の変哲もないただの人間な自分を選んでくれたということに八左ヱ門は誇りすら感じていたのだったが。
「……だったらさ。いつか行こうぜ」
「え?」
 返した声に不思議そうに睫毛を瞬かせた兵助に八左ヱ門は笑顔を向けた。それは今の自分に出来る目一杯の笑顔だった。
「一緒に行こう。兵助行きたいんだろ、その公園の湖。俺も行ってみたくなった。だから行こうぜ。二人で」
  その笑みは兵助の為ではなかった。憧れを込めた瞳で絵の中の情景に自分を映しこもうとする兵助の、熱を帯びた横顔が口惜しかったのだ。その振り向かない眼 差しの先に嫉妬した。だから自分の為に。兵助がいつか『八左ヱ門の笑ってる顔が俺は大好きだな』なんて言ってくれたそれを最大限に使ってみせたのだ。
 案の定こっちを見て少しだけぽかんとした兵助は、何だか含羞んだ微笑を浮かべて、
「うん」
 と頷いた。それを見た八左ヱ門はようやっと安堵の息を胸の裡に吐き出した。
「二人でさ。金貯めて、えーとヨーロッパだっけ? 行くならやっぱり春が良いよな。水がある時。雪解け水ってことは結構冷たいのかな。ボートでも借りてさ、湖の上、出ようぜ」
「うん」
「上から覗いてもきっと綺麗に見えると思うんだよ。透明度高いんだろ? それでも兵助が物足りなかったら水にも入ってみよう」
「ダイバースーツ無しで?」
「スーツもタンクも無しで」
 二人は顔を見合わせて笑った。夢語りだ。シュールレアリスム。現実にならない風景なら何処までも夢を描くことが出来る。――だけど、もしかしたら。
「二人で歩こう。遊歩道やらベンチやら……花が咲いてるんだっけ。ヨーロッパってどんな花が咲くんだろうな」
「俺の見たのは白い花だったよ。桜みたいな……木の枝いっぱいに咲いてた」
「そうかー。水の中の花ってのは綺麗だろうなあ」
 八左ヱ門の明るい口調に兵助の肩が揺れた。
「そうだな……うん、二人でだったら、楽しいだろうな」
「おう。絶対に楽しい」
「絶対か」
「絶対だ」
 そしてまた彼らの視線はどちらからともなく絵の中に吸い寄せられた。黙ったまま立ち続ける。時間を止めた水中の景色に引き込まれたかのように、時を忘れて佇み続ける。
 八左ヱ門の目に映る其処には最早老人の姿は無かった。その古びたベンチに座っているのは久々知兵助だった。薄手の春物を着てベンチの背にもたれて、うっとりとした表情で泳ぐ魚を眺めている。
 八左ヱ門はその隣に自分の姿を配してみた。並んで過ごす穏やかに止まった時間。隔絶された水の底でたった二人だけで。いつまでもどこまでも二人っきりで。
 兵助の厭世癖がうつったのかなと苦笑する。だがまあそれも悪くない。だってそれは幸福だ。同じことを感じ、考える人と、ただただ揺蕩い満足げな息を吐き他愛ない言葉を交わす空間はきっと幸福のカタチをしている。
 いつか此処には汽車が来るのだろう。そうしたら自分は兵助の手を引いてその汽車に乗るのだろう。錆びた線路の上を何処へ行くのかも判らぬそれに乗って一緒に何処までも旅をするのだ。しかしそれはまだ先の話。この閉ざされて凝った時間の過ぎた後。
 だから今は、君と二人きり、玻璃の流れを作る汽車を待ち続ける。『今日は暖かいな』なんて嘯いて『そうだな』なんて微笑みあって。
 静かに沈んだ水底の駅で。


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