Reconnect

控えめな灯りに照らされた館内は人もまばらで静寂に満ち、エントランスを抜けて展示品が並ぶ個々の小ホールへ足を踏み入れれば、そこは壁面にずらりと飾られた絵画と優美な肉体の曲線を描く彫刻たちが織り成す、秘密の世界だった。
月光展覧会の名に相応しく、照明は作品に当てるスポットと、足元を誘導するように等間隔に置かれたキャンドル、そして窓から降り注ぐ月明かり。薄闇のヴェールを被った展示室は、平面なキャンバスに描かれた人物たちや優美な彫刻たちが二人の通り過ぎたすぐそばから動きだして密やかな囁きを交わしていそうだった。
「はー…すごいな…」
さすがの八左ヱ門も雰囲気に気圧されたのか、ため息のように兵助の隣で感嘆の声を洩らした。
「さて、どうするんだ?」
「どうするって?」
「おまえ、なにか見たい作品があるんだろ?それとも順番に一つずつ見ていくのか?」
先ほどエントランスでチケットの購入を済ませ建物の中へと入る時、八左ヱ門がなにかを探すように熱心に館内地図を見ていたのに兵助は気づいていた。
「あー…」
なにやらバツが悪そうに頬を掻き、八左ヱ門は窓の外を見る。なんだ?
「俺のは、もうちょっと後でいい。先に兵助が見たがってた企画展の方からまわろうぜ」
「?うん、別にいいけど…」
なんだか歯切れの良くない様子がひっかかりながらも、兵助はまぁいいかと頷いた。よっしゃ、と場にそぐわない気合いのセリフを吐いて八左ヱ門は歩き出す。兵助もその背中を追って隣に並んで歩きだした。幾つかのホールや、回廊を通って目的の展示室を目指す。
通路は成人男性2人が並んで歩くには少しだけ狭く、自然と歩く二人の間の距離は近くなり、歩いていると度々兵助の肩が少し背の高い八左ヱ門の腕に軽くぶつかった。「あ、ごめん」「んにゃ」なんてはじめは謝って、そしてぶつからないよう少しだけ距離をとるのだけれど、薄暗くて方向感覚が狂うせいか少しもしないうちにまた八左ヱ門の腕に肩が触れる。
三度目に肩があたったとき、するりと兵助の腕を伝って八左ヱ門の指が手のひらに滑りこんできた。
「は、八左ヱ門…っ」
兵助は人目のある所でこういう、さも恋人同士のような行為をするのがはっきり言って苦手だ。自分たちは男同士であるからこそ、奇異な目で見られる。
抗議の声をあげて八左ヱ門を見上げた。
「平気だって、全然客いねーし」
「それでも、監視カメラとか、あるだろ」
「いーじゃん、別に」
対して八左ヱ門はあまり人目というものを気にしない。気にしないどころか、たまにさも見せつけるかのように人前で兵助に触れたがる所があるから厄介だ。こいつは俺のです、という顔で弄りにくる八左ヱ門に顔を赤く染めて抗議する兵助を面白がっている節さえある。
「とにかく、嫌だ」
一通りからかえば気が済むのか、いつも八左ヱ門は兵助が断固拒否の意思を見せれば『ちぇー』と不貞腐れた様子は見せるものの手を引く。当然今回もそうなるものと、兵助は思っていた。

「あーー…そう」

傷ついたような声音と短いため息とともに、八左ヱ門の手が放れていった。いつもと違う様子に慌てて見上げると隣を歩く八左ヱ門のテンションが明らかに急降下していく。その様子に兵助は動揺し、それからようやくまたやってしまったのだと気づいた。言葉が足りなかった。
何が嫌で、どうしてダメなのか、それを言わなければ、と思うのに口を開いてもどう言葉にしたらいいのかを考えあぐねていると。あのさぁ、と不機嫌な声が先に耳に届いた。
「前から思ってたんだけど、俺とのことが他人にバレるの、そんなにイヤ?こんな人目も殆どないに等しい所でも、それでもイヤなの?」
足を止め見下ろしてくる眼差しに射抜かれる。まっすぐに向けられるその目には、責めるような色が浮かんでいた。
「俺は全然気にしない。俺たちは別に悪いことをしてるわけじゃねぇし、なにか言いたい奴には言わせとけばいいと思ってるし、そんなことより兵助に触れてたい」
兵助はそうじゃねえの?言われて兵助は口を開いたものの言葉に詰まった。
どう答えるべきか、上手く言葉はまとまってくれなくて、結局一度開いた口を閉じた。
違う、そうじゃない。
八左ヱ門が言うように、おれたちは悪いことをしてるわけじゃない。
ーーでも。
結局の所、そこじゃないのだ。兵助が人前で触れるのを許さない原因は。それは恥ずかしい、だけでもなくて、もっと複雑な感情。
それを分かってほしいとは思うのに、口が空回りして。
二人の間に沈黙が降りる。月明かりが射し込む回廊は静寂に包まれ、なのに兵助はいやに自分の鼓動が煩く聞こえた。こんなとき、自分の思いを上手く言葉にできない己が嫌になる。
「…あー……、うん、なんか、ごめん。困らせた」
先に引いたのは、八左ヱ門だった。
「もういいよ」
はっと見上げた兵助の頭を軽くポンと撫で、八左ヱ門は再び歩きだす。その背中はいつものような元気さはなく、やはり沈んでいるような。
八左ヱ門、とその背中に呼びかけたが「あ!兵助、ついたぞ。見たがってた展示」
おー、すっげーなぁ、と声をあげて大股で歩きだしたその様子は明らかに話題を変えたがっていて。兵助は結局言葉を飲み込んだまま、八左ヱ門の後に続いた。




「うわ…すげーなぁ…」

至極シンプルな感想をあげる八左ヱ門は、さっきからそればかりだ。恐らく目にする作品たちに本当に心から感動しているのだろう、感動が強過ぎて、すげーなぁ、としか表現できないでいる。兵助も同じようなものだった。目の前に広がる世界にただただ感嘆し、目を丸くして見入る。
『光と影、そして祈り』
そう題されたこの企画展は誰しも教科書で一度は目にしたことがある有名な芸術家の作品展だ。ルネサンス期のイタリアで天才と呼ばれ活躍したこの芸術家の活動範囲は彫刻や絵画、また建築物にも及び歴史的にも非常に重要な人物として挙げられる。
口を大きく開けたままきょろきょろと興奮したように見回す八左ヱ門を横目に、兵助は静かに一枚の絵の前に進み出る。
荘厳たる額縁で飾られたその大きな絵は、これもまた誰しも一度はテレビや本などで見たことがあるだろう作品だった。
左側にアダムと呼ばれる男性が、右側には宙に浮かび天使に囲まれた神が、お互いに手をのばしている。旧約聖書のアダムの創造の場面を描いたこの作品は本物はイタリアの有名な礼拝堂の天井に収まっている筈なので、当然いま目の前に飾られているものはレプリカだ。しかしながら見事な人物の動きと肉体を表現したこの作品は遜色することなく兵助の前に在る。
アダムと、神と。互いに伸ばした手のその先、指先は今にも触れそうなのに、触れていない。
もう少し、アダムが身を乗り出しさえすれば、あるいは神がアダムに近づきさえすれば簡単に触れ合うことができるというのに、この絵の二人は触れ合うことなく時を止めてしまった。
一般的には、この絵は互いに伸ばした手が触れ合うその瞬間、神から知識と魂が、あるいは天啓がアダムの中へと吹き込まれる場面を描いているのだと言われているが、そんな解釈とは無縁な所で、兵助にとってこの絵は強烈なものだった。
それは、神とか人とか関係なく、ほんの僅かな距離で永遠に触れ合わないまま止まったこの二人の男性の姿。
記憶にある限り兵助がこの絵を初めて見たのは小学生の頃だった。なにかの本で目にして、その時の感想は、ふぅん、だけ。まだ絵画なんてものの価値も、この絵の何がすごいと言われるのかもぴんとこなかった。
でも、中学生、高校生、と歳を重ねるごとに、事あるごとにこの絵をよく脳裏に呼び起こしだした。
それは、八左ヱ門へ抱く気持ちに気づいてから。そして、ひょっとしたら八左ヱ門も、と思いだした頃と一致する。
欲しい、と思って兵助は八左ヱ門に手を伸ばした。それは決して振り向いてなどもらえないと思っていたから、安心して手を伸ばせた。この手を取ってもらえることなんて絶対ないと思っていたから。
でも、もしかしたら八左ヱ門も、と思った時から、兵助は揺れ、臆病になった。この手を掴んでほしいと思うのに、その一方で掴んで欲しくない。毎日バカなことを言い合って、ふざけ合って笑って、居心地のいい友達同士のままでどうして悪い?とりわけ、あの頃兵助は恋愛に対していい感情を抱いていなかった。恋だ愛だなんて、どうせいつかお互いの心が離れて終わりがくるもの。増してや男同士だなんて、背徳のその先に待ち受けているものは決して明るい未来じゃない、という思いばかりで。対して友情ならそんなことにはならない、友達としてずっと、ずっと八左ヱ門の側にいられるじゃないか、そんなことを考えた。
だから、『もしかすると』、と思い始めた頃から思い切り手を伸ばせなくなった。迷い、封じ込め、誤魔化して。
…結局は、八左ヱ門がそんな兵助の戸惑いもなにも吹っ飛ばしてこの手を掴みにきてくれたから、今の二人の関係があるのだけれど。
だからこの絵は兵助にとって、あの頃の二人の象徴みたいなものだった。

(…おれは、八左ヱ門に甘えているな)

二人の関係がただの友人から、恋人へと発展したのも八左ヱ門が頑張ってくれたおかげ。
それに、と先程のやり取りを思い出して、兵助は苦い気持ちになった。
謝るべきは兵助だった。どうして人前で触れられるのは嫌なのか、きちんと説明せずにイヤだやめろと拒絶ばかりし続けた兵助が悪いのは明白だ。なのに、八左ヱ門は悪くないのに(人前でいちゃつくのはやめて欲しいけど)、先に一歩引いて謝ったのは八左ヱ門だ。
思い返せばいつだってそうだったかもしれない。言葉に詰まって、身動きのとれなくなる兵助にごめん、と先に謝ることで八左ヱ門は兵助を解放する。
いくら兵助の方に原因があったとしても必ず八左ヱ門は兵助を慮って先に引いてくれるのだ。兵助が言葉に言い表せなくて思い悩むのを優しい八左ヱ門は見逃せない。
(でも、それじゃだめだ)
その場を譲ってくれたとして、八左ヱ門の中の不満や疑問が消えるわけじゃない。きっと、少しずつ蓄積していって、そして離れてしまう。
この絵の二人みたいに触れていそうで触れていない、いつしかそんな関係になってしまうのは嫌だった。本音をちゃんとぶつけなければ。
意を決して八左ヱ門、と呼ぼうとした時だ。「あっ!」という声が反対側の壁の方からした。見れば八左ヱ門が何かを探すようにガラス窓に張り付いて窓の外を覗き込んでいる。
「やべ、ーー兵助、来て!」
慌てて駆け出した八左ヱ門は兵助の腕を取り引っ張ろうとする。わけが分からず首を傾げる兵助に
「いいから、とりあえず来て!」
と強引に腕を引っ張って走りだした。
「おい、館内は走ったら…」
一応の注意は促してみるが、なにやら急いでいる八左ヱ門の耳にはまったく入らないようで仕方なく兵助は八左ヱ門に引っ張られるまま足を動かした。






『兵助!来て!』

引っ張られるように走りながら兵助は、懐かしいな、と思い返していた。
前にも八左ヱ門はそんな二言だけで兵助の手を引っ張って走ったことがある。
あれはまだ二人が友人だった頃、高校の運動会、借り物競争でのことだ。
自分の出番ではなかった兵助は、木陰で休んでいた。遠目で借り物競争に出場している八左ヱ門の姿を追っていたら、何故かその本人がグラウンドからこちらへ猛スピードで向かってきたものだから、あの時は本当に驚いた。兵助の目の前までたどり着いた八左ヱ門は手を伸ばし、『兵助!来て!』と叫ぶなり、碌に返事も聞かずきょとんとする兵助の腕を強引に掴んでまた走りだしたのだった。



回廊を駆け抜け、階段を幾つか駆け上がり、兵助の息が乱れてきた頃、ようやく八左ヱ門は速度を緩めた。
「なに…?」
振り返った八左ヱ門はイタズラを思いついた時のようににやっと笑って、そして扉の向こうの部屋を指さした。
「…?」
八左ヱ門の指が指し示す先ーー兵助は思わず感嘆の声を洩らした。
「すごい…!」
そこは確かに建物の中の筈なのに。目の前に広がる光景は月明かりに照らし出された緑溢れる庭園だった。上を見上げればドーム型の天井が一面ガラスになっていて、雲一つない夜空ともうすぐ真上にたどり着きそうなまんまるい月が今にも落ちてきそうなほど。その月に手を伸ばすようにして背の高い亜熱帯植物が床から天井近くまで弓なりに幹を伸ばしている。
足元を流れる小川に、小さく掛かる木で作られた橋。その橋を渡って行くと、庭園の真ん中には西洋式の小さな東屋が見える。緑の群れの中には古代ギリシャみたいな装飾が施された柱がいくつかあるが、わざとそうしているのだろう。蔦が絡みつき、廃墟のように一部崩れ落ちて地面に横たわっている。生い茂る植物たちも皆切りそろえられたりはされておらず自由奔放に地面を這ったり空に向かったり近くの木々に絡みついたり、まるで主をなくし久しく忘れられた庭のようだった。さらに天から射し込む月明かりが光と影を織り成し、まるで日本ではないどこか異国の地のような、幻想的な世界を創り上げて。そんな筈はないのに、いたずらな風が頬を撫でて過ぎて行くような錯覚さえ覚える。
「兵助、こっち」
生い茂る緑の中、どこか生き生きとした表情で八左ヱ門はでこぼこに敷き詰められた石畳の歩道を辿って奥へと進んでいく。
その背中を追いかけ、辿り着いたのは屋内庭園のちょうど真ん中あたりに見えた東屋だった。
石造りの小さな東屋はやっぱりドーム状の天井になっていて、下から見上げると天井部分の真ん中には円形の穴があり、ガラス窓の向こうの夜空が見える。目をこらせば星も見えそうだが、月が明るいせいか星までは確認できない。
「八左ヱ門、ここに来たかったのか?」
昆虫記大好き山大好きな自然児八左ヱ門らしいといえばらしいのだけど、走ってまで急いでここへくる意味がよく分からない。
「んーと…まぁ、そうだけど」
頬を掻きながら八左ヱ門は上を見上げる。つられて兵助も上を見るが、特に何もない。先程と同じガラス窓の向こうにインディゴブルーの空が見える。さっきと少しだけ違うのは、月が東屋の丸い穴の端っこに少しだけ覗いているくらいか。
んー、あともうちょっとか、独り言のように八左ヱ門は呟いた。
「なぁ、八左ヱ門」
「ん?」
「さっき、ごめんな」
「いやいや、だからもういーって」
「よくない」
「いーんだって。兵助は恥ずかしがり屋で、人目につく所じゃあんまりそういうことして欲しくないんだって、分かってたのにな」
違う、それもあるけど、そうじゃない。
「違うんだ」
八左ヱ門の手を掴んで、兵助は真っ直ぐに八左ヱ門の瞳を見つめる。以前は八左ヱ門から掴んでくれた手を、今度は自分から。
「嫌だって言うのは、八左ヱ門に触られることが嫌なんじゃない。おれだって、お前に触れていたいよ」
「…だったら、なんで」
「だって、…だってさ、やっぱりおれたち男同士だから、そういうの、変な目で見られるだろ。おれはいいんだ。別に後ろ指さされたって、変な目で見られたって、おれの事はどうでもいい」
でも、怖いのは。
「でも、もし八左ヱ門の知り合いが見てて、変な噂とか流したら?八左ヱ門に偏見をもって、嫌がらせとかしだしたら…?
おれのせいで八左ヱ門が周りの人間から変な目で見られたり、苦しめられたりするのは…八左ヱ門が辛い目に遭うのは、おれ嫌だよ。それで、八左ヱ門が辛くなっておれから離れて行くのは、もっと嫌だ」
あの日、兵助の手を掴んでゴールを駆け抜けた八左ヱ門。
全力疾走で息を切らせ二人して地面に座り込んだ後、借り物競争のお題はいったい何だったのかと兵助は八左ヱ門に問い詰めた。八左ヱ門はあー、とかうー、とか真っ赤な顔で明後日の方向を見ながら呻いて、やがて意を決したように口を真一文字に結んで兵助の目の前に紙切れをバッと差し出した。
近すぎる紙切れに目を寄せて書いてある文字を読みとれば。徐々に兵助は目を見開いた。これは。

『いちばん特別なひと』

目をまん丸にして紙切れと、それからこれ以上ないほど真っ赤に染め怒ったような顔で真剣に見つめてくる八左ヱ門の顔とを交互に見て。
兵助は返事するよりもなにより早く、まだ八左ヱ門に握られたままだった手にぎゅうっと力を込めた。殆ど、本能のように。
触れるか触れないか、ギリギリの所で均衡を保っていたお互いの手。その均衡は崩されてしまった。他ならぬ八左ヱ門の手によって。
もう繋がれてしまったこの手を、放したくはない、そう思った。
だから、兵助は大切なものを真綿で包むように、始まったこの関係を大切にしようと思った。壊れてしまわないように、八左ヱ門が傷ついて離れていかないように。
でもいつの間にか兵助は八左ヱ門の優しさにすっかり慣れて甘えてしまって。他愛のない会話でさえ、ちゃんと伝えるべき言葉も伝えていなかった。
「…そっか」
八左ヱ門のほっとしたような声音は、優しく響いた。
「いろいろ考えてくれてたんだなぁ。ごめんな、俺、そこまで考えがまわってなくて」
その言葉にふるふると頭を振る。
「違う、八左ヱ門は悪くない。おれ、いつも言葉足りないし、八左ヱ門の優しさに甘えてばかりで」
「兵助、」
「ごめん」
すっかり俯いてしまった兵助に、さてどうしたものか、と八左ヱ門は天を見上げた。兵助が八左ヱ門のことをそんなふうに大切に思ってくれてたのはとても嬉しいし、そもそも八左ヱ門としては自分から兵助を手放すなんてことはこの先もありえないと思っている。確かに時折ぶつけられる辛辣な言葉や拒絶に心がささくれることはあれど、いちばん大切なのは兵助で、その兵助と一緒にいられることで。
二人の望みは一緒なのに、でも二人の考え方が違うから、八左ヱ門は兵助と一緒にいたいと、隙あらば兵助に触れたいと思う欲に素直に従う。兵助は、八左ヱ門と一緒にいられる為に人前では触れてほしくないという。どちらも間違ってない。
それならば、お互いに納得できる形をとればいい。
「謝らなくていい。兵助がそんなふうに考えてくれてたこと、俺はすっげえ嬉しいし、伝えてくれてありがと。…うん、そうだな、俺も兵助が俺の知らない所で嫌がらせされたり、蔑まれたりするの嫌だし…。これからは、ちょっとだけ、自重する」
「ちょっとだけか」
と兵助は苦笑した。
「うん、ちょっとだけ」
八左ヱ門も笑った。
「でさ、兵助もちょっとは俺に譲って?こうゆう、ひと気のない所では、お許しだして?」
えっ!?と兵助の顔がヒクついた。どうしてそうなるのだろう。
「それでお互いちょうどいいだろ?」
馬鹿みたいに幸せそうに笑う八左ヱ門の腕が、兵助の腰を引き寄せる。
眉を吊り上げた兵助だが、今度は抵抗しなかった。たっぷりの沈黙をおいて「ちょっと、だけな」そう顔を背けて呟いた。八左ヱ門から見える耳朶や首筋が、薄闇でもすぐに分かるほど赤い。
「ちょっとだけ?」
「ちょっとだけ!」
惜しい表情の八左ヱ門に兵助が真っ赤な顔でがなる。その様子が可愛らしくて八左ヱ門は兵助を腕の中に閉じ込めたまま笑い声をあげた。そして再び天井を仰ぐ。
「お、そろそろだな」
そんな呟きを聞き取って、兵助は首を傾げた。
「さっきから何なんだ?」
小首を傾げて不思議そうに見上げてくるまるで猫のような仕草に、八左ヱ門はふっと笑む。
短い前髪でむき出しの額に自身のそれをくっつけるようにあてがって、間近で兵助の瞳を捕らえる。

「な、兵助。さわって?」

抗えない艶を含んだ声音。兵助はそっと瞼を閉じた。頤を上げ、天を仰ぐようにしなやかに八左ヱ門の腕の中で身を伸べる。
そうして、二人の間の隙間はなくなった。



その時ドーム型の天井のちょうどてっぺんに、ゆったりと笑うように光を放つ月がたどり着いた。その姿は二人がいる東屋の天井の穴を通り抜けて、その下の二人を強い光で照らし出す。


まるで神が祝福を与える一筋の光のように。











****


「あ、八左ヱ門と兵助、月光展覧会に行って来たんだね」
後日、お決まりのメンバー揃っての集まり。会場は何故だかいつも八左ヱ門が一人暮らししているアパートで。目ざとく…もとい、好奇心旺盛な彼らは八左ヱ門がぞんざいにテーブルに放っていた『月光展覧会』のチケットの半券を見つけやいのやいのと話題にした。
「ってゆーか、あれだろ?あそこの月光展覧会っていやぁ…」
にやにやと、三郎がからかいを含めた調子で兵助を見やる。なんだよ、と兵助が睨みながら応酬する一方で隣の八左ヱ門が唐突に咳き込んだ。
「…大丈夫か?」
「ゲホッゲホッ!三郎!お前余計な事は言うなよ!」
「あ!オレオレ!オレも知ってるー♪あそこさーぁ…むがっ!!」
ハイハイと元気良く手を挙げた勘右衛門の口を素早く八左ヱ門の手が強引に塞ぐ。だが三人目の使徒までは防げなかった。
「あ、なにもしかして八左ヱ門たち、おまじないしてきたの?」
にこにこしながらあっさりと言ってのけた雷蔵に、八左ヱ門がわぁわぁと叫びながら阻止しようとする。
おまじない。おまじない。なんとも男に似つかわしくない言葉。
わたわたする八左ヱ門の口を塞ぎ、雷蔵の邪魔をしないよう押さえつけるのは勘右衛門と三郎だ。
「わぁー!雷蔵っやめっ…んーんんっ!!」
「おまじないって?」
「あれっ知らないの兵助。あそこの月光展覧会って毎年やっててさ、『満月の夜、最上階の屋内庭園にある東屋で、月がてっぺんにくる時キスしたらその二人は永遠に結ばれる』っていう、まぁいわゆるよくある話」
「は」
しなかったの?とのんびりした声で問いかけられたが兵助の頭の中は沸騰したお湯みたいに湯気が出そうで全然聞いていなかった。
(ーーえ、あれって、そうゆう……)
途端にかっと全身が熱くなる。色々居た堪れなさすぎて兵助は顔を隠すようにテーブルに突っ伏した。その耳に

「ーーあ、はち死んだ」

「兵助も死んだな」

なんて悪友たちの揶揄する声が響いてくる。
そんな二人を肴に、三人はさらなる言及をするべく楽しそうに笑うのであった。




一通りのおもちゃにされる時間が過ぎ、兵助はまだ赤みのひかない顔で八左ヱ門に視線を投げた。
「おまえ、そんな乙女みたいな思考も持ち合わせてたんだな」
「う、うるっさい。兵助が外で触らせてくんねーから、ちょっと不安になっただけじゃん」
テーブルの下では、拗ねる八左ヱ門の熱を持った手のひらと、それから兵助の手のひらがしっかりと繋がれている。



二人の望むものは同じこと。


掴んだこの手は、放さない。


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