イントロダクション

「『月光展覧会』?」
 耳慣れぬ単語に兵助は首を傾げた。
 そうそう、そうなんだよ、と何故か手柄顔で八左ヱ門が説明を始めたところに依れば、それは隣町にある美術館での催しなのだという。普段は夕方までしか入場できない其処が期間限定で真夜中も会場を開けているのだと。大きな宣伝は打っていないが口コミで広がり、若者のデートスポットとしても評判らしい。
「静かだし、すごく雰囲気が良いんだってさ。それに今丁度、企画展のコーナーで兵助が好きだって言ってた画家の特集やってるらしいんだよ。ほらこいつ。見たいって言ってただろ? な、行きたくねえ?」
 八左ヱ門の差し出した美術展のチラシを見つめて、兵助はもう一度首を傾げた。
「展覧会ねえ。でもお前、絵なんか見る趣味あったっけ?」
「え? あーいや、まあ、たまには美術館とかもいいんじゃないかなーって……ほら、ゲージュツカツドーってやつ? その、知的好奇心って言うじゃん。そういうのも悪くないよな、うん」
 何だか狼狽えたような八左ヱ門の前でことりことりと兵助の細い首筋が人形のように左右に倒れる。そのままじいっと何かを考えていたが、やがて大きな瞳は一つ瞬くとその中に八左ヱ門を映した。
「――そうだな。真夜中だったら騒がしい団体客とかも少なそうだし。ゆっくり見て回れるかもな」
「だろ!」
 八左ヱ門は我が意を得たりとばかりに嬉しそうに顔を綻ばせた。
「じゃあ早速今夜!」
「今夜? まあいいけど」
 随分急だな、なんて表面ばかりは呆れたように苦笑して、兵助も密かにわくわくとし出した胸の裡を自覚しながら闇色のチラシをもう一度眺めた。

 * *

 それが半日ほど前のはなし。
 今、兵助と八左ヱ門の二人は並んで美術館への道を歩いている。夜空は晴れていて、折しも大きな満月がぽかりと宙を照らしていた。
 分厚い濃紺色のボール紙の蓋をかぶせた空には白く小さな穴を開けたように星がぱらぱらと散らばっている。その中央に貼りつけられたまん丸い月は淡いレモンイエローのセロファン細工だ。ボール紙の向こう側にある白熱灯の灯りを透かしてぼんやり光っている。
 綺麗に墜落してきそうなそれを眺めて兵助はゆっくり目を細めた。
「兵助、どうした?」
 数歩先を歩いていた八左ヱ門が振り返った。
 いや何でも、と首を振って兵助も小走りで足の速い彼に追いついた。美術館に続くプロムナードは間隔を空けた街灯がぽつりぽつりと石畳を照らしているだけだ。
「随分と静かだな」
「そりゃ、こんな時間だもんなあ」
 何となく声をひそめてしまった兵助に、八左ヱ門は常変わらぬからりとした笑顔と大声で明るく返した。その明るさはこんな夜にはふさわしくない、と兵助は思う。それは眩しい昼日中に属するものだ。
 思わず唇を尖らせてしまった兵助を見て八左ヱ門はきょとりとした表情をした。
「なに?」
「いやだってお前、なんか騒がしい……」
「はあ?」
 つい溢した兵助の言葉に八左ヱ門は男らしい形の眉に皺を寄せた。
「なんて言うかさ、せっかく雰囲気いいのに。真夜中で月夜で美術館なんてロマンティックの三題噺みたいだろ。なのにお前態度ガサツすぎって言うか。いろいろ台無し感がすごい」
「えええ」
 それを聞いた八左ヱ門は暫く、口を開けたり閉じたり、ぐうっと眉根を顰めた変な顔をしてみたりしていたが、やがてふてくされた悪戯坊主みたいな顔をして兵助の片手を強く握って引っ張った。
「もういいよ。さっさと行こうぜ。ほら、早く早く!」
「ちょ、おい、そんな引っ張るなってばっ」
 たたらを踏んだ兵助が慌ててついていくのを振り返りもせず八左ヱ門はオレンジの街灯が染める少し凸凹の石畳の上をずんずんと歩いて行く。大股な彼の歩調に併せるために兵助も必死で足を動かした。長い影法師が石畳を揺れて滑る。
 ああ、うん。兵助は少しだけ反省した。
 自分はいつも余計な所で正直すぎる上にその後のフォローが足りないのだ。ちゃんと口に出さなければいけないのはもうちょっと別のことで、反射的に投げつけてしまった兵助の毒舌に気分を害したかもしれない八左ヱ門への素直で棘の無い気持ちなのに。
 兵助は息を大きく吸った。
「――おい」
「……なんだよ」
「楽しみにしてるから」
 出来るだけやわりと囁くと急にその歩調が緩んだ。
 半分立ち止まってしまった八左ヱ門の横顔を見上げれば、仄かな暖色に映るのは街灯のせいか、それとも。
「……そんなの、俺も楽しみだったし」
 呟かれて再び引かれた掌の熱と感触に微笑みが零れる。「うん」と頷くと兵助は、美術館の四角く開いた入り口を八左ヱ門と肩を並べて潜り抜けた。

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