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1月
蜜色のさかずき
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九条ゆき
行くな行くな勘右衛門、行かないでくれ、と、俺はありったけの念をこめて視線を送った。
見つめ合った先に居るのは十歳から寝食を共にしている友人だ。俺の思いはきっと伝わるはずで、勘右衛門は俺を置いて部屋を出て行ったりしない。
そんな必死な眼差しが伝わったのか、勘右衛門がにこっと微笑む。
「じゃっ、後は二人でごゆっくりーィ」
明るく告げられた退室の言葉は無情で、俺は思わず、両手で顔を覆った。
俺が熱を出したのは、新学期早々のことだった。
年末年始を実家や居候先で過ごした生徒達も、学園長先生の思い付きのオリエンテーリングですっかり休み呆けを払われ、いつも通りの日常が戻ってきた矢先、周囲の活気に反して俺は突然寝込んだ。疲労が原因でしょうとの新野先生の見立ては痛いところを突いていて、薬を受け取りながら曖昧に笑うしかない。部屋まで支えてくれた勘右衛門は、体調の悪さを気遣ってか面と向かって尋ねることはなかったが、その代わり探るような視線を一瞬感じた。
けれど俺はその視線に気付かないフリをする。心当たりは有りすぎるほどだったが、自分を案じてくれる友人に言えるような内容ではとてもなく、心身ともに疲弊していた俺は、それから三日床に伏せた。
2月
暁月夜に思う君
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赤引
朗らかな笑い声がさざ波のように近づいてきて、いつのまにかわっと取り囲まれていた。
一瞬たりとも静止しないで動き回る頭が一、二、三……合計十一。一年は組の後輩が勢ぞろいのようだ。
「え、なに? なんなんだ?」
すぐ隣で同じくもみくちゃにされた兵助が、助けを求めて八左ヱ門に視線を送ってきた。一年生ばかりの生物委員会と違って、火薬委員会はたしか一年生が一人きりだ。こんなふうに両手両足にそれぞれしがみつかれ、自由気ままに体重をかけられ、四方八方に嫌というくらい引っ張られる経験なんてないだろう。
矢の飛び交う戦場でだって冷や汗ひとつ流さない冷静沈着な兵助が、思わぬ刺客におもしろいくらいあわてふためいている。
八左ヱ門は噴き出しそうな口を片手で押さえて、助け舟を出そうとその手を上げた。すると、それを阻止するように伊助が二人の間を割って入り、「久々知先輩」と呼びかけた。
「先輩って、『月影の君』って呼ばれていたって本当ですか?」
一人が口火を切れば、残りの十人も「すごーい」「かっこいいですね、あこがれます」「ぼくも呼んでいいですか?」などと、口々に問いかける。兵助はますます困った顔をして、八左ヱ門をちらちら見てくる。
「なつかしいな、その呼び名」
たまらず失笑すると、兵助からそれた視線が一斉に向かってきた。八左ヱ門はきらきら輝く二十二の瞳をぐるりと見渡して、
「あれは、おれたちが一年生のときだったから、もう四年前か。ちょうど今ごろだったよな。梅の花も終わって、あたたかな日が続く春先だった。例のごとく学園長の突然の思い付きで……」
「おい、八左ヱ門。やめろ」
兵助が八左ヱ門の肩に手を伸ばし、鋭い口調で待ったをかけた。
3月
そして、それから
(※年齢操作あり)
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ひゃく
長く居座っていた冬は、春分を間近にして漸く重い腰を上げたようだった。このところ一気に春めいて、気づけば冬枯れの野にも、芽吹きの色があちらこちらに散らばっている。春の足音はひたひたと、もうすぐ側まで聞こえていた。袷の羽織が用済みになる日も、そう遠くはないだろう。
背中の行李はそろそろ荷が溢れている。どうにかして詰め込むか、いっそ街に着いた時に売ってしまうか。兵助が羽織の行き先に思案を巡らせていると、隣であっと声が上がった。
「先生、見てください」
弾むような声に目を向けると、日差しのような笑みが咲いていた。この旅の供であり、訳あって兵助が預かっている少年だった。
今年の正月に十三を数えたが、些か成長が遅いらしい。未だ変わる気配すらない声と丸みを帯びた頬は、あどけなさばかりを引き立てた。その風貌に似合わない傷痕だらけの指先が、道の先に立つ一本の紅梅を示している。
「珍しいですね。こんなところに一本だけ」
みしりと詰まった枝振りから察するに、紅梅は自生したものらしい。自然のあるがまま、天へと伸びた枝先から、はらりはらりと花弁を零している。近くまでやってくると、ほんのりと甘やかな香りが鼻腔を擽った。
「鳥か獣が運んだのやら、それとも誰かが植えたのやら。いずれにしても、里が近いな」
辺りを見回しながら兵助が言うと、少年は見る間に喜色をのぼらせた。
「良かった! 今日は野宿せずに済みそうですね」
4月
テレスコープ∽カレイドスコープ
(※現パロ)
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相模
「この中にはね、秘密が入ってるんだ」
兵助はそう言って八左ヱ門の目の前にその小さな筒を差し出した。
「秘密……ですか?」
八左ヱ門は瞼をぱちくりさせると、受け取ったそれを片目に当てた。もう片目を瞑れば途端に鮮やかな色彩が世界いっぱいを占める。綺麗に反射しあって区切られたモザイク模様の中、まばゆいカケラたちが散らばった。
くるり。回転させればたちまち世界はその色と形を変化させる。
「秘密だよ」
聴こえた、耳朶をくすぐる低く優しい声に顔を上げると、兵助は男にしては随分と色白の貌を綻ばせてくすりと笑った。
思えばこの時から、八左ヱ門は恋をしていたのかもしれない。
○●
竹谷八左ヱ門が初めてその人に出会ったのは、高校の入学式の翌々日だった。
ぼんやりとした薄曇りの日で、花霞とでも言うのか、妙に白けた雲だか靄だかが空色を褪めさせる昼下がりだった。
5月
フラワームーン・ブルース
(※現パロ)
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Y
兵助がおかしいから五分で来いと、連絡をよこしたのは勘右衛門である。
一応おれは兵助の恋人のはずで、だから「勘右衛門から」「おれが」そんな連絡をもらうことについては立場上少しくむっとしなくもないのだが、昔から勘右衛門は勘右衛門だし兵助は兵助だし、そういう勘右衛門のいわばくっついた兵助をおれはすきになったわけだからしかたない。
そんなことを考えながら原付を飛ばしたおれが、ローカルな私鉄で四駅ぶんの距離にある兵助の部屋に着いたのは、勘右衛門の呼び出しからきっかり二十分たった頃だった。
「おっそーい」
「んなでもないだろ」
「そうだね、がんばったね八左ヱ門」
「兵助は?」
あたりまえのような叱責で出迎えてきた友人に恋人の所在をたずねれば、いるよ、と当の本人が奥から顔を出した。
「悪かったな、わざわざ来させて。おれは止めたんだが、勘右衛門が聞かなくて」
「いや」
すまなさそうにあやまる彼は、そう思って見ればたしかになんだか印象がちがった。全体に、薄いというかグレーというか。やつれている。
6月
月と蛍
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らんらん
青々とした草を踏みしめ風のように走る。足裏に感じる柔らかい土の感触。緑の大地のにおい。初夏の風を切って自らも風のように走った。
緑の野原の向こうには眩しい笑顔で手を振る少年がいた。少し日に焼けた肌にぼさついた髪、文字通り太陽のもとに生まれたかのような、この燦々と注ぐ初夏の日差しがいっとう似合う少年だった。
おうい、少年が呼ぶ。笑顔で指差す先には山から湧き出し流れる清流があった。少年はそちらへ向かって走り出すと履物を脱ぎ散らかしてそのまま川の中へと飛び込んでいった。途端、水しぶきがきらきらと舞い散る。その中で少年は笑って手招きした。
浮き立つ心のまま自分も履物を脱ぎ捨て、土を思い切り踏み切って川の中へ飛び込めば、一際大きな水飛沫を浴びることになってしまった少年がおい、と呆然としながら声をあげた。そしてすかさず足元の清流を思い切り蹴り上げ、お返しとばかりに水を見舞った。やったな、そこからは互いに水を蹴り合い、それだけでは足りず両手も使って相手に水を掛け合う。しまいにはお互い濡れねずみになりながらもしきりに笑い声をあげていた。
新緑の葉から木漏れ日が降り注ぎ、飛び散る飛沫が反射してはきらきらと水面に還っていく。繰り返し繰り返し。笑い声が響き、鳥のさえずりも新緑の葉たちのさざめきも、輝く水しぶきも声を上げる少年の笑顔も。
すべてが彩に溢れていて、きらきらとした世界だった。
7月
月に隠れたきみのこと
(※現パロ・転生)
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minami
ただでさえ心配を掛けているようだから、これ以上はダメだろうと。
「はち? どうかした?」
ほら。そうしてまた不安そうな表情を浮かべている。竹谷は視線を外して頭を振った。
「いいや。なんでもない」
何とか不安を紛らわそうと、竹谷は表情を緩めてから椅子に座る。
「暑い? 冷房かけようか、」
「あぁ、うん。……急に暑くなってきたよな。むしむしする」
「ここに来るまで、蝉も鳴き始めてた」
「もう?」
そんな他愛もない、表面だけの軽薄なやり取り。部屋に掛かっているカレンダーを見て、竹谷は納得した。梅雨も明け、夏と言い切っても良い暦である。そうか。間もなく一年が経とうとしている。
何が起きたのか分からないまま、それでも懸命に過ごした一年だった。丁度一年前の湿気の強い夜、竹谷は派手な事故に巻き込まれた。多分事故の詳細は竹谷本人よりも周りの方が知っていると思う。巻き込まれた本人ときたら、その瞬間に意識をなくして次の目覚めは病院だったのだから。それでも竹谷の目覚めは奇跡的なものであったらしい。しかし安穏とした目覚めを問屋が卸すわけもなく、死者も出た事故の生き残りとして竹谷は長いリハビリを必要とする怪我と、何故、と何かに問いかけたくなる咎を負わされた。
突発的な記憶障害。甲斐甲斐しく療養の竹谷を訪れる眼前の男は、その咎に巻き込まれている。
8月
月世界
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もだ
雨である。八左ヱ門は図書室でひとり古書の頁を手繰っていた。
人里離れた地に建つ忍術学園は山々に囲まれている。朝から陽射しが強く、良く晴れた日の夏山は次第に雲が湧き上がり、午後からは夕立に見舞われる。それを経験則から知っていた八左ヱ門は太陽が照っている間に前倒しで委員会活動を片付けた。
夏季休暇前ということで後輩たちは浮き足立っていた。今期最後の授業後、各人に宿題が配られたばかりなのだ。それが彼らを興奮させている一因だろう。
一年生の彼らにとってこれがはじめての長期休暇になる。久しぶりに生家へ帰宅できるのだ、宿題に対する辟易とした思いや不安はあるだろうが、やはり帰省が楽しみでしょうがないに違いない。八左ヱ門にも覚えがあった。彼もまた、実家へ帰るなり授業で習得した内容を両親やきょうだいたちにこっそり披露したものだ。いま思うと危ういことをしたと思う。もしも近所の何も知らない人々に忍びの技を見られていたらと思うと、心臓がひやりとする。
だからおまえたちは軽率なことはするなよ、と八左ヱ門は自らの体験談を挙げて釘を刺した。そうしてこうも付け加えた。
――休暇はあっという間に終わっちまってなあ、登校日になって合流した同級生から宿題をやったかって聞かれて、そこではじめて宿題の存在を思い出したもんだ。
取り繕わない性格の八左ヱ門は、気兼ねなく自らの失敗談を話すことができる。後輩たちはくすくすと笑いながらも、話の結末を知りたがった。八左ヱ門の目論見どおり、自分たちも同じ轍を踏むかもしれない危惧が芽生えたらしかった。
竹谷先輩、それからどうしたんですか? 先生に怒られちゃいました? 彼らの無邪気な問いかけに、八左ヱ門は首を振った。休みが明けたら教えてやろう、宿題はちゃんとやれよ、と先輩らしい真面目な顔で告げる。はあい、がんばりまあす、という素直で可愛らしい返事に背中を押されて、八左ヱ門は久しぶりに図書室へと向かうことにした。
9月
まだ此処は浅瀬
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姉代
時間にして数刻。急ぎではないと伝えられていたから、走ることはしないが、それでも常人よりもずっとその歩みはしっかりとしている。じりじりと日差しが肌を焼く。行きも帰りも随分な距離を歩いた筈だが、隣を歩く友人と、不思議と話は尽きることがなかった。
懇意にしているのだという人物から土産があるから取りに来てほしい、と。
学園長の部屋の前を通りかかったところで久々知が頼まれていたのを聞いていたら、「近くにいたから」と誘われた。今日は折良く急ぎの用事はなく、二つ返事で応えることが出来た。
自分たちに頼むのだから、何かと厄介な事でもあるのではないかと(なんせ学園長のことだ)、警戒していたのだが、「それじゃよろしくね」と穏やかに微笑まれ、ついでにと出された茶菓子はたいそう美味しいものだった。役得である。
けれどこれではそれこそ一年生が頼まれるような『お遣い』だ。わざわざ、五年生である自分たちに頼むのだというのだから、何か面倒に巻き込まれるかとも思ったのだが。
「っていうか何で俺たちだったんだろうな」
「一年生の足じゃ一日では行って帰って来れないからじゃないか?」
「そうかもしれないけどさ。俺たちだって暇って訳じゃねーのになあ。そりゃあ、六年生に比べたら学園内に居ることの方が多いけどさ」
「まあいいんじゃないか、たまには」
息抜きも必要だろ、という言葉に少し驚いて、八左ヱ門は目を数度瞬かせた。その台詞が何処と無く、久々知らしからぬ気がして、だ。
10月
満月の忘れもの
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さと
忍術学園の五年生は忘れ物を探すのが得意だ。「なくしもの」の間違いではない、わすれものである。それは手ぬぐいや教科書、武器、小筆、そして、他人の記憶に至るまで。
「あれ?久々知先輩、…火薬の点検表、その、今日渡してもらえるって昨夜…」
「昨夜?」
「あ~。昨夜、じゃだめだよぉ。三郎次くん」
焔硝蔵の前できょとんとしている久々知に、四年生の斉藤タカ丸は笑って手を振った。そのまま秋晴れの空を指すと、三郎次があっと手を叩く。
「しまった。ゆうべ満月でした」
「お月見までしたのに。うっかりだねえ」
にこにこしているタカ丸の隣で、さて、と久々知は腕を組んだ。
「点検表どこだろう」
「探してきますか?」
「そうするよ。満月の日ならあるべき場所にしか置いてないはずだから、ここじゃないなら教室か長屋、職員室だ」
「分かりました」
委員会活動の残りは任せて、久々知はまず長屋を目指した。放課後の長屋なら、同級生が誰か一人ぐらいはつかまるはずだ。
兵助は満月の夜の記憶が曖昧になると、最初に気づいたのは担任だった。覚えていること、覚えていないことはハッキリ分かれるが統一性がない。時間もバラバラなら場所もバラバラ。その一晩の行動のどこを忘れるかは、本人にも分からない。
11月
受ける月に祈りを
(※現パロ)
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しろ
【一】
(疲れた……)
口にするのさえ億劫なその言葉は胸の中でヘドロのようにへばりついた。足が重い。もう何日も、いや何週間と蓄積された疲労が、まるで鎖となって俺に絡まっているかのような感覚だった。
元々、口下手で内向的な性格だ。営業に向いていないという自覚はあった。正直、異動命令を受けたときに「何で俺が?」って思った。だが「上を目指す上では必要なことなんだよ」と上司に取りなされて、将来のためなら仕方ない、その思いで辞令を受けた。
だが、待ち受けていたのは想像以上に厳しい世界だった。相手にされるのならばまだいい。仮に話が纏まらなかったとしても、後で自分の何が悪かったのか分析できるから。だが、契約書にサインするしないの以前に、そもそも話を聞いて貰えなかった。アポを取ってあったはずが門前払いなんてことも一度や二度の話じゃない。話ができなければ契約を結ぶ事なんて土台できない。そうなれば当然、数字を上げれない。すり減った靴底の分だけ自分の心も殺がれていくような、そんな日々だった。
周囲は何も言ってこなかった。だからこそ「本社から来ているのにこいつ使えねぇな」とその目が言っているような、そんな気がしてならなかった。その視線が耐え難く、逃げるように「外回りに行ってきます」と営業に出るものの結果は空振りばかりで。誰にも頼ることもできず、もうどうしたらいいのか分からなかった。
12月
Moonstruck Chaining
(※現パロ・転生)
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文
変な男に捕まった。
そいつは今兵助の隣にいて、背中を丸め、夜の公園のベンチなどという場所には似つかわしくない『数学Ⅱ・B 傾向と対策』を手にうんうん唸っている。
唸り始めて相当経ったから、こっちとこっち両方逆数にしてbとかおいたら普通の漸化式になるよ、と横から口を出せば、え? あー、ああ! と目を瞬かせて頷き、再びシャーペンを走らせ始めた。りょうへんの、ぎゃくすうをかんがえ、えーえぬ、ぶんのいち、いこーる、びーえぬとおく、まる。月明かりと頼りない街灯だけでもはっきり見てとれる濃い鉛色、一文字ごとにシャーペンのてっぺんで何かのキャラクターが揺れる。プラスチックのぶつかる小さな音。兵助にはひどく邪魔そうに見えるのだが、彼は気にならないらしい。
ごくごく控えめに、兵助は息を吐いた。
(ほんと、変な男に捕まった……)
兵助はいつもそう思っている。もう五年以上になる。つまり、彼と出会って彼のことを好きになってからずっと。
彼の名を竹谷八左ヱ門という。彼に初めて出会ったのも、この公園のこのベンチでだった。ちょうど今夜みたいにきれいな月夜のことだ。その頃中一だった兵助が塾の帰りにたまたまここを通りかかったら季節外れの真っ黒なロングコートに黒い眼帯をつけた少年が座っていて、あっやばいと思ったのに目が合った、それが竹谷である。
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